ご満悦ブログ

日記とつぶやきの間。その日の頭の中のハイライト。

明日生きるために生きている今足りないもの

大学を出て週40時間以上働く生活が始まってから4か月が経とうとしている。

長い学生生活(今のところの人生の7割を占める)が終わるという個人的には一大事なライフイベントがさくっと起きて、全く見通しの立たない社会人生活がふわっと始まった。

 

「自粛」という名のひきこもり生活は約5ヵ月。誰が誰より苦しいか・悩んでいるかばかりじゃなくて、人や立場によって悩みの内容が違うだけだということも気に留めておくべきだと実感する数か月間だった。

 

世界中が自ら経済活動を制限しなければならないこの苦しい年に、家から働かせてもらえているのはもちろんありがたいことだけど、かといって毎日にこにこして過ごせていたわけじゃない。

 

一人で黙々と「週5日朝から晩まで仕事をすること」に慣れるのに精一杯だったが、6月後半くらいからようやく仕事以外のことにもまた手を出せるようになってきた。その勢いでこのブログも始めてみた。

 

毎朝、「今日も生存するために生きてるな」って思う。

飢えないようにごはんを食べて、清潔でいるためにシャワーを浴びたり掃除をしたり、明日また動けるように夜は寝て、そんな生活に必要なものをスーパーとドラッグストアから週に1回調達して、そしてそれらを可能にするお金を稼ぐために仕事をする。

 

忌野清志郎の『はたらく人々』という曲の「世界中が働いてる 稼いだ金を使うために 世界中が食事してる 明日また働くために」という歌詞そのまんまの生活をしている・・・。私もついに「はたらく人々」の一人になってしまった。

 


[ はたらく人々 ] 忌野清志郎 (1985 LIVE AID) 

 

今日1日生きることの目的が「生き延びること」って何かおかしいけども、とにかくそういう生活になっちゃってる。

 

ありがたいことに今日も元気に生き延びたけどやっぱり何か物足りない。

 

ここ数か月間一番恋しかったのは、評価も何も気にせず楽しくおしゃべりできる友達だったかもしれない。

元々一人で過ごすのは好きだけど、さすがにちょっときつくなってきた。

 

話し相手がかなり制限されていると、自分がどういう性格だったのかすらも忘れちゃいそうな気がする。

仕事の人たちとはほとんど英語しか使わないから、余計に自分が日本語で友達と喋っていた時の感覚が消えそうな感じがする。

 

同期と呼べる人は会社にいない。みんな親切な人たちだが誰とも親しくはない。今はまだ研修中ということになってるけど何がいつどう評価されているのかもわからない。

 

6畳の部屋で毎日一人こんなじめじめした感情ばかりもっていたら性格が変わっちゃいそうだ。

性格は顔に出るというけど、間違ってないと思う。日に日に自分の顔が自信なさげでつまらない顔に変わっていっていてるので鏡を見るのが嫌だ。

今は頑張り時とわかっている。でも自分がどんな人間だったかくらいは覚えていられる程度に友達と会ったり話したりしたい。

 

本当に自分を保てなくなりそうだった時に、友達何人かにどうでもいいメッセージを送ってみたりもした。

普段からあまり自分から友達にメッセージ送った経験がなかったことを少し後悔した。どう話しかければいいのかすらよくわからなくてかなり悩んだ。こんな唐突に連絡したら不審がられるのか。重いとか面倒臭い奴とか思われているかもしれない...

 

大学生活の後半から薄々気づき始めてたけど、友達関係の維持は間違いなく年々難しくなってる。みんなどうやってるんだ。

 

この引きこもり状態だとコミュニケーションの目的がほとんど「要求」と「問題の指摘」になる。

友達じゃないんだからどうでもいい話をわざわざ送ってくる人は当然いない。

結果、仕事中にメールやスカイプの通知音を聞くと緊張するとかいう何の役にも立たない条件反射を身に付けてしまった。最近は緊張のレベルが少し下がって来たけど、やっぱり楽しくはない。

コミュニケーションの目的がほとんど2つしかないことに気付いてからは、意識的にポジティブなメッセージを他人に送るようにしている。

それでもまだまだ要求と指摘以外のコミュニケーションは恋しい。

 

あと美術と音楽に浸る時間が足りてない。

もっとそれらについて考えたり、絵を見たり描いたり、音楽を聞いたり演奏したりしたい。

もう毎日ずっと頭の中は仕事一色だった。隙間が生まれ始めたのはここ最近。

自分の言葉でうまく説明できないけど、高村光太郎の「美の影響力」という文章がかなり共感できる。

非目前的なのが美の持つ影響力の特質である。人は毎日の生活に惱む。毎日の生活とは即ち目前處理の生活である。人はその累積の中に埋もれてその生活そのものに内在する非目前的の一面を忘却する。そしてやりきれない鬱積を打ち拂ふために、手取早く、低い娯樂や、演藝物などの爆笑とか危險感とかいふものを漁つて一時をごまかす。實は何にも滿足が得られたのではない。結局さういふものに馬鹿にされたやうな氣持をいつでも持つてゐるのである。心の底では、馬鹿にするな、と思ひながら又つい見るのである。見ざるを得ないほど毎日が澁く、にがく、乾いた目前處理の生活ばかりなのである。

(中略)

國民各自の中に埋沒してゐる美意識の自主的活動、即ち藝術精神の覺醒が、今日の場合藝術界に於けるどのやうな問題よりも緊要なのは、それが國民生活の最も根本的な救世的意味を持つてゐるからである。藝術精神とは、國民各自の外界に存在するものでなくて、國民各自の中に在つて、毎日の目前的生活處理そのものを即刻即座に非目前的に自己みづから立ち上つて觀じ味ふことの出來るやうにさせる精神力なのである。生活に苦しみ、病に惱みながら、その苦しみ、なやむ自己をもう一歩非目前的な世界から觀じ味はふことの出來る境地が藝術の心である。それはまつたく生活と同一體であつて、しかも生活に振りまはされず、却て生活を豐かにし、ゆとりあらしめる。非常の場合に驚き慌てない心を得させる。藝術精神は宗教のやうに現世から解脱させるのでなく、あくまで現世のままに味到せしめる。味ひ、愛し、到るところを美に化してしまふのである。(青空文庫から引用。底本:『 高村光太郎全集第五卷』筑摩書房,1957; 1995

 

冒頭に書いた「生存するために生きてる」生活は、ここで言う「澁く、にがく、乾いた目前處理の生活」ってことなんだと思う。

「目前處理の生活」で潰れないために、定期的にこの文章を思い出している。