ご満悦ブログ

日記とつぶやきの間。その日の頭の中のハイライト。

中間集団全体主義の国

明治大学内藤朝雄准教授が提唱している「中間集団全体主義」という言葉を知った。

その言葉は私にとって新しいけど、その概念は少し聞いたり読んだりしたところ馴染みのあるものだった。

まだ上手く頭の中が整理できていないけど、今までもやもや感じていたことの一部が言語化された感じがする。

 

news.yahoo.co.jp

 

中間集団全体主義」とは個人の人格・感情すらも含めて全てが中間集団に支配される社会の特徴で、日本はこの傾向があるという。

 

個人の感情と集団の感情の同一視という感じだと言えるだろうか。

 

上の記事に書かれている、個人としての感染予防のための行動と集団としての「コロナ差別」の違いの説明がわかりやすい。

「個人として感染の危険性をどのように見積もるか、人とどの程度の距離をとるかは自由です。例えば、『私はPCR検査の精度に関してあまり信用していないし、新型コロナウイルスは人から人に非常にうつりやすいと思っています。だから、私はあなたと話すときには○メートル以上距離を取り、マスクをします。もちろん、言うまでもなく、あなたが悪いわけではありません。悪いのは新型コロナウィルスです』と言うことは問題ありません。

絶対に許してはいけないのは、集団として個人を『穢れ』として扱って、『こいつは穢れたやつだからみんなで排除しちゃえ』と罵詈雑言を浴びせることです。もし、本当に命を守りたくて、『ウイルスが悪いのであって人間は悪くない。人間を守るために距離をとらないといけない』と考えていれば、誹謗中傷などせず、相手が感染している可能性が高い方であれば、『お気の毒に』と言って、むしろ心理的距離は近づけながら、物理的距離を大きくとります。その違いが大事なんです。

 

 

今日ラジオで聞いた内藤先生のインタビューでは、人格否定だと捉えがちであるとも言っていた。

 

建設的な意見を人格に結び付ける人はよく見る。でも残念ながら自分もその一人だ。

それが幼稚なことだと思っているのにも関わらず、ついそういう気がして勝手に落ち込んだりすることがある。

こういう考え方はやめないといけないとずっと思ってきたけど、この言葉を知った今日この思考回路は断ち切ることにした。もう絶対に、何でもかんでも短絡的に人格否定だと捉えることはしない。

 

その思考回路がいつから植え付けられたのかはわからないけど、一番古い記憶では小学校一年生か二年生の頃だ。

学級会だったか、討論会みたいなことをする時間だった。内容は完全に忘れた。

周りが意見を発表している中で勇気を出して意見を言ってみたところ、賛同者はいなかった。

皆から次々に反対された時、6歳か7歳の私はそれをまさに人格否定のように捉えてしまい、恥ずかしさと悲しさで泣いてしまった。教室で泣くことがますます恥ずかしかった。

何と言ったらいいかわからず困惑してメソメソ泣く私を見て同じく困惑したクラスの子に対し、いつも優しかった先生は「放っておきなさい」とだけ言った。

その冷ややかな一言を聞いて我に返った。でも当時の私はなぜそれで我に返ったのかまでは考えなかった。

 

今思えば、あの言葉は討論を討論として進めるための一言だったのかもしれない。

あの時間は、同意があったら嬉しかったかもしれないが、同情を得るための時間ではなかった。

 

その後、泣くまではいかなくとも同じように人格否定に結び付けてしまうことはあったが、その度にあの先生の「放っておきなさい」という声が頭の中で再生された。

 

そして先月Twitterアカウントを消す理由となったあのうんざりする「雰囲気」も、集団と個人、建設的な意見と人格否定の混同だったのかもしれない。

 

割り切っていこう。